私は物心がついたころから古い自宅の外壁に消し炭で絵を描き、わら草履で消すということを繰り返すほど絵が好きだった。中学校卒業後、津市大門にあった映画館で、映画の看板職人の見習になった。
 当時の映画館は2本立て1週間の上映が普通。2本の映画を紹介する大型看板を毎週5枚以上制作しなければならなかった。描くスピードとともに、その看板で、どれだけ多くの客を呼べるかが職人の腕の見せどころだった。看板技術が進んでいた名古屋に休日に出掛けて映画看板をながめたり、名古屋から津の別の映画館に来た職人の制作作業を見学し、腕を磨いた。
 23歳で独立し、キヒラ工房を設立。一時は津市内の映画館3館の看板を掛け持ちする職人になった。しかし、まもなく市内に10館あった映画館は徐々に減り、仕事は百貨店の看板制作などに移っていった。大きな懸垂幕に筆を使わずエアブラシで描く技術が認められ04年には「現代の名工」にも選ばれたが、絵筆を持つ機会はほとんどなくなった。
 再び絵筆を持つようになったのは、05年に山口県で開催された「第1回全国1級技能士優秀作品展」に映画看板を出品したのがきっかけ。同展に「男はつらいよ」、翌年の第2回展(香川県)に「七人の侍」の映画看板を出品した。それ以来、趣味として休日に作品を描きため、50点を超えたため、初の作品展を開くことにした。
 「レタリング力と描写力、レイアウト、色彩計画のすべてが問われる総合工芸が映画看板」。今回の作品は、現役当時よりも時間をかけ、一点一点をじっくりと描き上げた。今は自分の技術レベルを比較する映画看板がどこにもないのが残念。デザインだけすれば、パソコンを使って誰でも簡単に看板を作れる時代だが、作品を通して手描きの職人芸を伝えていきたい。